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トゥシューズ、コスチューム

 もうひとつ、ドガの創造意欲を掻き立てたものはトゥシューズとチュールでできたバレリーナのチュチュでした。どちらも当時はまだ製品としても最新の技術を駆使したものでしたから、ドガは結構新しもの好きだったのでしょう。ただ、ドガの絵がそれらの新しい製品を紹介するといった、歴史の記録としての絵画なの
であればそれは写真に取って代わられていたことでしょう。今日もなおそれが人々の興味をひくものであると言うことは、それだけではない、何かがそこに描かれているからといえるでしょう。

 なぜ踊るのか?

 その何か、そしてドガの真のテーマはそこにあったといえます。

自身の芸術を極めるため、毎日の訓練を黙々とこなすダンサー。

その傍らでこれまた来る日も来る日も淡々と筆を走らせる絵描き。

そこにドガは芸術の分野や社会的身分は違っても、同じ芸術家として強く共感していたのでしょう。

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浮世絵の影響

 ドガはその当時の多くの芸術家達と同様、日本の浮世絵から強く影響を受けていました。印象派と呼ばれる彼らは、その中に見られるオブジェを作品に描いたり、また版画の技法を用いて創作したりしていました。ドガの作品からはその大胆な構図やパーステクティブにその影響が見られます。

ジュール・ペローとドガ

バレエ 『ジゼル』の生みの親であるジュール・ペローはロシアの帝国バレエ学校定年後、フランスに戻り、オペラ座で教鞭を取っていました。ドガはロマンティックバレエの作者として名を成したペローになみなみならぬ尊敬の念を抱いていたようで、オペラ座のバレエレッスン風景(La class de danse 1873-1876 パリ、オルセー美術館所蔵)や試験の場面(Répétition de ballet 1876-1877 カンサスシティ、ネルソンアトキンス美術館)を描いた作品には60歳を過ぎたペローがバレリーナたちを指導する様子が描かれています。

ドガと踊り子 I

 印象派の画家エドガー・ドガ(1834-1917)はパリオペラ座の踊り子たちを描いたパステル画で広く知られています。ドガは常々「私の描きたいのはバレリーナではなく、動きと美しい布だ」と語っていたといいます。パリで銀行家の家庭に生まれたドガはいわゆる上流社会に属し、当時社交の場であったオペラ座に子供の頃から通い、慣れ親しんでいました。ドガがそこで見たものは贅沢な宝石と着物に囲まれた踊り子達ではなく、日々の厳しい訓練に通いながらも、苦しい生活を強いられているバレリーナの現実でした。

ロイ・フラー Loie Fuller III

★イサドラ・ダンカン、川上貞奴とフラー

 フラーは19世紀後半にヨーロッパに渡り、パリのフォリー・ベルジェなどでショーを行い、大成功を得ます。また当時同じくアメリカ出身のイサドラ・ダンカンや、パリで万博に参加していた川上貞奴ともヨーロッパ公演を行いました。

 こうしてプロデューサーとしても精力的に活動し、ロートレックやロダンなどのベルエポックの芸術家とも親交がありました。

 アメリカ生まれのフラーですが、結局最終的に落ち着いたのはパリでした。自分の弟子達とアメリカ公演のために帰国しますが、1928年にパリで亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地で眠っています。

ロイ・フラー Loie Fuller II

★スカート・ダンス

 ロイ・フラーは1862年、アメリカ、シカゴに生まれ、幼少から劇団で子役として活躍していました。ダンスのレッスンも受けていたようですが、厳しい訓練についていけず、どちらかというと女優としての道を進んでいました。

 ある日絹のスカートを着て鏡の前でそれをひるがえしてみたフラーは、「これで面白いショーができるのではないか」と思いつきます。

つまり彼女のダンスは女性の誰でもが鏡の前で少し長めのスカートをはいて、くるっと回ってみた…というのが発端のダンスだといえます。そこから発展して、独特の衣装と照明効果を駆使したスカート・ダンスを完成していきました。

ロイ・フラー Loie Fuller I

Loie Fuller

Portrait of Loie Fuller

★衣装と照明の芸術家

 ロイ・フラーはアメリカのモダンダンスのパイオニアのひとりです。

 彼女のダンスはダンス自身のテクニックではなく、独特の衣装と照明を駆使したショーで知られています。

 上の写真の通り、かなり凝った衣装です。全身総絹で、蝶の羽のようなところはワイヤーを入れていたそうですが、型紙(多分無いと思いますが)はどうなっていたのでしょうか。 この衣装にカラフルな照明を当て、その効果を最大限引き出すための振りを作っています。つまり、フラーの意図したものは、踊りが主体というよりはその衣装と照明が主体でした。

ロシアバレエ III

★ロシアバレエのバレエマスターたち

 シャルル・ディドロ、アルチュール・サンレオン、ジュール・ペロー、マリウス・プティパといったフランス人バレエマスターが入れ替わり立ち代わり入ってきます。その後ミハイル・フォーキン、アンナ・パブロワ、ニジンスキー、レオニード・マシーンなどの才能あるダンサー達によって今日で言うロシアバレエが成立していきます。クラシック・バレエとはいえ、当時からアメリカのモダンダンスの影響や演劇などから影響を受け、多種多彩な作品が次々と生まれました。

ロシアバレエ II

★帝国バレエ劇場とバレエ学校

ロシアのバレエはフランスとの関係が深く、初期にはジュール・ペローやプティパといったフランスのバレエマスターが活躍していました。1738年、フランス人バレエマスター、ジャン・バティスト ランデがサンクトペテルブルグに帝国バレエ学校を創立します。学校ではベルダンス(当時のバレエ)だけでなく、フランス語も教えられていました。

ロシアバレエ I

★ロシアバレエ

ヨーロッパではイサドラたちの時代以降、バレエは廃れて行きますが、その伝統はロシアに伝えられ、多くの傑作が生まれます。

 なぜロシアでその芸術が花開いたのでしょうか。それはロシア帝国のツァーがバレエを擁護したことが最大の要因だといえます。国家権力がバレエを強力に後押しすることによって、多くの優れた芸術家がロシアを訪れ、ロシアバレエの発展に貢献していきました。