Category Archives: History ダンスの歴史

クルト・ヨース I

  20世紀のモダンダンスの巨匠であるピナ・バウシュが師事し、影響を受けた舞踏家のひとりがクルト・ヨースです。

 1902年西ドイツに生まれたヨースはナチスドイツの台頭、そして第二次世界大戦という激動の時代を生き抜いた時代の証人でもあります。

 ルドルフ・ラバンの元でダンサーとして活躍した彼はその後ダンスと演劇との融合を試みた作品を生み出していきます。

くるみ割り人形 III

★チェレスタと金平糖の精

 甘い甘い旋律の金平糖の精の曲。それは最初はアルモニカという、ガラス製木琴のために書かれたものでした。しかしチャイコフスキーは後に当時発明されたばかりであった、チェレスタという楽器で演奏するよう、楽器指定を変更しています。チャイコフスキーは他の作曲家に先駆けてこの楽器を使用することを望んだため、初演までこの楽器を使うことを公にしませんでした。現在この曲はチェレスタを用いた最初の作品として知られています。

くるみ割り人形 II

★演出あれこれ

 『くるみ』の音楽やテーマに魅せられた振り付け家が思い思いにアレンジした様々な演出が試みられて現在に至りますが、大きく分けて次のような演出があります。

 ドロッセルマイヤーと王子を同じダンサーが踊るもの。
 くるみ割り人形と王子を同じダンサーが踊るもの。
 クララと金平糖の精を同じバレリーナが踊るもの。
 クララは全編を通じて子役が踊るもの。

これらの配役の組み合わせで同じ音楽で、同じ振り付けでも全く違った作品のようになるから不思議です。たわいのない作品ですが、それだけに幅の広い解釈が可能な作品だといえるでしょう。

くるみ割り人形

金平糖の精の踊り

 くるみ割り人形はクリスマスの夜に少女クララが、夢の中でプレゼントされたくるみ割り人形に導かれて、お菓子の国を旅するというお話です。初演は1892年、サンクトペテルブルグ。音楽チャイコフスキー、振り付けはマリウス・プティパの予定でしたが、急遽病に倒れたため、弟子であったレフ・イワノフの手に委ねられました。

★あらすじ

 クリスマスイブの夜、クララの家では盛大なパーティーが開かれています。ドロッセルマイヤー(実は魔法使い?)はクララに兵隊の形をしている、くるみ割り人形をプレゼントします。その夜、皆が寝静まった後、くるみ割り人形は王子になってクララをお菓子の国に連れて行きます。
 お菓子の国では様々な踊り、スペイン、アラビア、中国、ロシア、葦笛の踊り、花のワルツ、金平糖の踊り等等が披露されます。

トゥシューズ、コスチューム

 もうひとつ、ドガの創造意欲を掻き立てたものはトゥシューズとチュールでできたバレリーナのチュチュでした。どちらも当時はまだ製品としても最新の技術を駆使したものでしたから、ドガは結構新しもの好きだったのでしょう。ただ、ドガの絵がそれらの新しい製品を紹介するといった、歴史の記録としての絵画なの
であればそれは写真に取って代わられていたことでしょう。今日もなおそれが人々の興味をひくものであると言うことは、それだけではない、何かがそこに描かれているからといえるでしょう。

 なぜ踊るのか?

 その何か、そしてドガの真のテーマはそこにあったといえます。

自身の芸術を極めるため、毎日の訓練を黙々とこなすダンサー。

その傍らでこれまた来る日も来る日も淡々と筆を走らせる絵描き。

そこにドガは芸術の分野や社会的身分は違っても、同じ芸術家として強く共感していたのでしょう。

浮世絵の影響

 ドガはその当時の多くの芸術家達と同様、日本の浮世絵から強く影響を受けていました。印象派と呼ばれる彼らは、その中に見られるオブジェを作品に描いたり、また版画の技法を用いて創作したりしていました。ドガの作品からはその大胆な構図やパーステクティブにその影響が見られます。

ジュール・ペローとドガ

バレエ 『ジゼル』の生みの親であるジュール・ペローはロシアの帝国バレエ学校定年後、フランスに戻り、オペラ座で教鞭を取っていました。ドガはロマンティックバレエの作者として名を成したペローになみなみならぬ尊敬の念を抱いていたようで、オペラ座のバレエレッスン風景(La class de danse 1873-1876 パリ、オルセー美術館所蔵)や試験の場面(Répétition de ballet 1876-1877 カンサスシティ、ネルソンアトキンス美術館)を描いた作品には60歳を過ぎたペローがバレリーナたちを指導する様子が描かれています。

ドガと踊り子 I

 印象派の画家エドガー・ドガ(1834-1917)はパリオペラ座の踊り子たちを描いたパステル画で広く知られています。ドガは常々「私の描きたいのはバレリーナではなく、動きと美しい布だ」と語っていたといいます。パリで銀行家の家庭に生まれたドガはいわゆる上流社会に属し、当時社交の場であったオペラ座に子供の頃から通い、慣れ親しんでいました。ドガがそこで見たものは贅沢な宝石と着物に囲まれた踊り子達ではなく、日々の厳しい訓練に通いながらも、苦しい生活を強いられているバレリーナの現実でした。

ロイ・フラー Loie Fuller III

★イサドラ・ダンカン、川上貞奴とフラー

 フラーは19世紀後半にヨーロッパに渡り、パリのフォリー・ベルジェなどでショーを行い、大成功を得ます。また当時同じくアメリカ出身のイサドラ・ダンカンや、パリで万博に参加していた川上貞奴ともヨーロッパ公演を行いました。

 こうしてプロデューサーとしても精力的に活動し、ロートレックやロダンなどのベルエポックの芸術家とも親交がありました。

 アメリカ生まれのフラーですが、結局最終的に落ち着いたのはパリでした。自分の弟子達とアメリカ公演のために帰国しますが、1928年にパリで亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地で眠っています。

ロイ・フラー Loie Fuller II

★スカート・ダンス

 ロイ・フラーは1862年、アメリカ、シカゴに生まれ、幼少から劇団で子役として活躍していました。ダンスのレッスンも受けていたようですが、厳しい訓練についていけず、どちらかというと女優としての道を進んでいました。

 ある日絹のスカートを着て鏡の前でそれをひるがえしてみたフラーは、「これで面白いショーができるのではないか」と思いつきます。

つまり彼女のダンスは女性の誰でもが鏡の前で少し長めのスカートをはいて、くるっと回ってみた…というのが発端のダンスだといえます。そこから発展して、独特の衣装と照明効果を駆使したスカート・ダンスを完成していきました。